『キャッツ』(2020年)
トム・フーパー監督の『キャッツ』を見てまいりました。
トム・フーパーは『レ・ミゼラブル』で舞台ミュージカルの映画化を監督してヒットさせましたが、今回の『キャッツ』では大コケしたと聞いて、これは見なくてはと思い行ってまいりました。
元々の期待値が高かった映画で、不評が先行している場合は、これチャンスではないかと思います。まともじゃないものが見れる可能性を感じます。
不評の理由を映画の記事などで読むと見た目の不気味さが挙げられていて、これは良い傾向だと思いました。
元々の期待値が高かった映画で、不評が先行している場合は、これチャンスではないかと思います。まともじゃないものが見れる可能性を感じます。
不評の理由を映画の記事などで読むと見た目の不気味さが挙げられていて、これは良い傾向だと思いました。
見た目が不気味、不快なものというのは、普段なかなか目にすることができないもので、今見ないでどうするというスタンスで臨むのが楽しいところでもあります。ぜひとも新しい不気味さを味わいたいという前向きな思い。
で、見てまいりましたが、たしかに不気味ではありました。。
『キャッツ』というのは猫しか登場しないんですね。そもそも猫を人が演じる時点で不気味さから逃れるのは難しいのかもしれません。今日に至って何も舞台版の不気味さが許されているわけでもなく、この不気味さは、それこそが『キャッツ』を『キャッツ』たらしめている重要な要素であると言えるのかもしれません。
ただ映画版、今回はCGを駆使して、毛の生え方とかしっぽとか、それらをある種の自然さの追求の果てに表現してもいて、その一方で顔ははっきりと人間のまま残していじらないでいる。メイクや扮装ではなく、肉から直接に毛が生えている様子を丁寧に描いてある様は、より一層猫と人の融合を感じさせます。
私はこの生半可な猫表現の不気味さを受け入れるためにこの映画を見ているのだと、そんな気持ちで鑑賞していました。それがこうした映画の醍醐味なはずです。
そうやって見ていると、だんだんとこの猫たちがまるで人造人間のようにして、望まれず生まれてしまった悲劇を、あるいは喜劇を感じて少し愛おしくなってもきました。
そうした葛藤を乗り越えて、私が特別に惹かれたのは白猫ヴィクトリアの美貌と大腿部でした。
英国ロイヤルバレエ団のプリンシパルとして活躍しているというバレエダンサー、フランチェスカ・ヘイワード演じるヴィクトリアの美しさ。これはこの映画最大の見どころの一つだろうと思いますが、競輪選手かと見紛うほどの鍛え抜かれたももを見るたびに「うそだろ」と動揺してしまいました。
あの大腿部を前にすると、猫か人かの争いも、これが不気味かどうかの戸惑いも一切が無意味になる、、それほど力強い、本物の筋肉でした。(モーションキャプチャーなのでCGで増している可能性もありますが、、)
またあの可愛さ。
たとえば地方に住む中学生、制服がだぼだぼの男子中学二年生くらいの少年が、ショッピングモールのシネコンでたまたまキャッツを友人らと見て、友人は意味が分からない、ジェリクルって何、ストーリーが見えないと酷評したが、彼は白猫の可愛さが頭から離れず、その後こっそり一人で2回観に行ってしまった、
ようなことが起きているのではないかと思うほどの可愛さでした。
舞台『キャッツ』も一応見たことはあるのです。
舞台『キャッツ』も一応見たことはあるのです。
90年代の半ば頃、ロンドンで見る機会があり、内容がさっぱり分からなかったので、帰国してから劇団四季版を見て、やはりさっぱり分からなかったという経験があります。
英語だったから分からなかったのではなく、そういうミュージカルなんだと四季版を見て思いました。
猫が躍動し歌う姿を見るだけで、得も言われぬ感情が湧き起こる不思議。逆に言えばミュージカルでなければ成しえないことをやっているのかもしれません。
見終わった後にふと、もしこれをMGMミュージカルの頃の俳優がやったなら、どんな映画キャッツになるのだろうと想像しました。フレッド・アステアが鉄道猫でタップを披露するだろうか、ジーン・ケリーが悪役のマキャヴィティで魅了してくれるだろうかなどと、、
なので、『キャッツ』は今回の逆風にめげず、今後も時代時代のダンサー、俳優、歌手を集めて度々映画化してほしいと、いっそやってしまえと、そんなことを思っています。
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