2020年2月25日火曜日

『彼らは生きていた』-戦場のコント-

『彼らは生きていた』(2020年)

ピーター・ジャクソン監督の『彼らは生きていた』見てまいりました。

まず、このドキュメンタリー映画がどういったものなのか公式サイト等から引用し箇条書きにしてみたいと思います。

・イギリスの帝国戦争博物館に保管されていた第一次世界大戦の記録映像を再構築
・2200時間にも及ぶモノクロの映像を修復・着色
・無音の映像に足音や爆撃音など効果音を加え、一部の兵士の声は、読唇術を用いて当時のなまりのある話し方まで俳優が再現
・異なるスピードの映像を1秒24フレームに統一
・イギリスBBC保存の600時間の退役軍人のインタビュー音源をナレーションの形で構成
・兵士の戦闘だけでなく、休憩時や食事の風景など日常の様子も盛り込んだ

という常軌を逸した一品です。

2200時間の映像を、チェックするだけで2200時間かかるという計算になります。
600時間の録音を聞くだけで600時間が必要です。

足した2800時間を24時間で割るようなことは、あえてここではしませんが、1日8時間労働だとして、、とかいった野暮なことはしませんが、ともかくこの膨大な素材から必要部分を抜粋し構成し、さらには修復しという作業を思うと気が遠くなりそうです。

それを監督したのがピーター・ジャクソン。あの『ロード・オブ・ザ・リング』(01年)の、あの『ブレインデッド』(92年)の監督です。相変わらずおそろしいまでのバイタリティで、人々をあっと言わせる作品に挑戦しています。

私が子供の頃、80年代には世の中は既にカラーテレビが主流で、映画もカラーが当たり前でした。
小3のときに同級生の女の子が「うちまだ白黒テレビ」と発言しクラスメイトを驚かせ、私も度肝を抜かれたのですが、80年代中頃の地方ではギリギリ白黒の文化が残っていたものの、それは化石のような扱いだったという状態でしょうか。

当時私が見た白黒の映像と言えば、例えば「テレビ探偵団」(86年~92年)や、懐メロ、昭和の事件特集など、まだ白黒放送だった時分を回顧するテレビ番組で触れる程度でした。
色がないことは殊更に印象的で、随分と過去の出来事のように見えたものです。知らない時代の遠いお話。もしかして実社会が白黒だったのではと勘違いしそうになるほどに隔絶を感じていました。

特に世界大戦においては、残存する当時の映像や写真をもってしても、事後に生まれた者たちにとっては現実味が薄く、不当に過去のものとされてきたところがあったのではないかと思います。

本作は、白黒が持つ過去性といいますか、その虚構性を真っ向から破壊しにかかります。我々となんら変わりのない人々が本当に戦場にいて、戦い、命を落としたのだと、それを実感するために可能な限りの技術を駆使して、生々しく蘇らせたのです。

第一次世界大戦(1914年~1918年)は、近代戦争としてとんでもなく多数の死者を出しました。
その記録映画ならば、おそらくは凄惨な映像が大半なのだろうと覚悟して臨みましたが、必ずしも露悪的な残虐さの押し売りはしておらず、無論そういった箇所もありましたが、印象に残るのはそこにいた兵士たちの表情、それも笑顔でした。

画面の左から右へ、二人の兵士が横切るワンカットがありました。
前を行く兵士の頭を、後ろの兵士が長い棒でコツンコツンと叩きながら歩き去るほんの小さな一幕。これが目に焼き付いています。
後ろの者はカメラの方を見ており、これがわざわざ撮影者に向けられた冗談だった可能性を感じさせました。あるいは撮影者も一緒になって演出した“おもしろ映像”だったかもしれません。

激しい戦場の前線、敵のドイツと向き合い塹壕でうずくまって戦ったイギリス兵たちは、後方での束の間の休み時間にこうしたことをやっていたのだと、目の前で生き生きとしたその様子を見せられ感動さえ覚えました。と同時に、この日常的な様子が翻って戦争の恐ろしさを浮き彫りにもしていたと思います。無茶苦茶良い場面でした。

戦争の記録としても、映像革新としても、大変意義のある作品だったと思います。よくぞやってくれたと、心から拍手を送りたい気持ちです。

そしてふと、この技術を使えば、かつての白黒映画もカラー作品化できるという理屈になるわけで、『七人の侍』(54年)とか『雨月物語』(53年)とか、『ゴジラ』(54年)でもなんでもいいのですが、一体どんなことになるんだろうと思いました。。

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2020年2月22日土曜日

『ミッドサマー』-儀式には口を出せない-

『ミッドサマー』(2020年)

アリ・アスター監督の『ミッドサマー』見てまいりました。

理不尽なルールに巻き込まれた主人公たちが、果たしてそこから抜け出すことができるのだろうかという物語。監督前作の『ヘレディタリー/継承』とも通じるところがありますね。ほんと嫌な話を作る名人(笑)。

悪夢をずっと見せられているような心地で、館内も暑かったのか妙な汗を全身にかいてしまって、個人的には4DX並みの体感でした。

緑に囲まれたとある山村。山奥の広々とひらけた土地にあるこの村は、白夜により夜を知りません。延々と、煌々と照りつける日差しのもと、白い衣装に身を包んだ村人たちが笑顔で暮らしています。
この異境に、若い男女が訪れてどえらい目に遭うわけです。 
 
ほぼ全編が儀式でした
この集落では宗教と風習により、徹底した儀式が構築されており、なんびともこれを侵すことはできません何から何まで儀式で成り立っており、食事をとるにも花を摘むのにも全てルールの中で行っているのです。
友人の案内でこの地に足を踏み入れた男女たちは、驚きつつ、困惑しつつ、その特有のルールに興味を持つものも出始めます。

葬式で笑ってはいけないのと同じで、そこに入ればルールに従わなくてはなりません。

子供の頃、たまに友人宅へお泊りすることがありました。
そのとき泊まった友人宅ではお風呂のお湯がぬるいルールがあり、おそらく子供たち用にぬるめの設定をしていたんだろうと思いますが、私の家は熱々の湯船に「あー!」と叫びながら肩まで浸かるようなルールでしたので、そのギャップに驚いたのを覚えています。

ぬるいからといって、私は追い炊きを求めることはできませんでした。友人と友人の弟と三人で大はしゃぎで風呂を終え、その後布団に入ってから熱を出すことになるのです。身体が冷えて風邪をひいてしまったのでしょう。

翌朝の朝食は肉まんだと聞かされていましたが、晩のうちに帰宅することになり、肉まんにありつくことはできませんでした。私の家では肉まんはおやつであり食事に食べたことがなかったので、なんて素晴らしいルールなんだと大喜びしていたのですが。。

「あ、こちらでは、そのようになさるんですね、、、」という思いは誰しも感じたことがあるはずで、地域や職場や学校やお店などなどあらゆるコミュニティにおいて、積み上げられてきたルールに他者が初めて触れたとき、何かしらのショックが起きるものでしょう。

小さな小さなコミュニティである家庭単位でも風呂ルールが変わるのに、国や人種、宗教、歴史が違えば、ますますその違いは大きくなるでしょう。だからこそ昨今は“多様性”への関心が高まり、相互理解と偏見からの脱却が求められているわけですが、それをこのアリ・アスター監督は悪用(笑)しまして、およそ思いつく限りのおぞましい“特有の”ルールを主人公たちにふっかけてきます。「あ、こちらでは、そのようになさるんですね、、、」の連続。ここでは当たり前のことなんだからと許すと、とんでもないことが起きてしまいます。
まぁホラー映画ですね、これは。

こわい映画らしく、この映画にはこわい老人が多数登場します。
最近だと、M・ナイト・シャマラン監督の『ヴィジット』(15年)で姉弟が宿泊する先の祖父母、それからアンディ・ムスキエティ監督の『IT イット THE END 』(19年/続編の方)でジェシカ・チャステインが訪ねた家の老婆、あの風味の老人群がそうです。こわい老人。

ボケてるのか何なのか、話が通じなさそうな老人の怖さを描くのが近頃少し流行しているのかもしれませんが、本作にも沢山出てまいります。私はこわい老人ファンですので存分に楽しむことができました。怖かったです。

夢を見ているような、酩酊しているような、ドラッグでトリップしているような、地に足のつかないような、感覚が麻痺したような、そうした状況の中に信じがたい現実がぽんぽんと放り込まれる超現実儀式映画。音もまた凝った作りをしており、見ていて汗ばんだのは音の効果にやられてしまったからかもしれないと、後になって思いました。

早く帰って今日は早寝しよう、布団でゆっくり眠ろうと、帰宅の電車でそう思っていました。アリ・アスターめ、ありがとう。
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2020年2月16日日曜日

『ハスラーズ』-コートのあたたかさ-

『ハスラーズ』(2020年)

ローリーン・スカファリア監督の『ハスラーズ』見てまいりました。

予告編を見て想像していたような映画ではありませんでした。
オーシャンズ8的なチームでごっそり強奪かます痛快劇というわけでもないのです。

どちらかと言えば人情マフィアものの調子、ともすれば青春映画の風合いで語られ、涙を誘う熱い物語が出演者の好演で大変高い完成度に至っています。

私は泣いてしまいました。。
泣ける映画が良い映画とは限りませんが(年齢を重ねるごとに涙もろさはインフレ傾向ですし、、)、良い映画は時に泣ける要素も含みます。
劇場のあちこちからすすり泣きが聞こえてきて、私も手探りでカバンの中からハンドタオルを出しました。

この映画の何が見た者に熱い涙を流させるのかといえば、一にも二にもジェニファー・ロペスです。
驚くべき姐御演技。情に厚く頼りになるおねえさん像として、これ以上のもの見たことがありません。降りかかる数々の難題を前に、はたしてジェニファー・ロペスはこれをどうやって切り抜けるのか、彼女の一挙手一投足に目が離せなくなりました。無敵の人情家ジェニファー・ロペスにかかれば、どんなことでも立ちどころに解決してしまうかのように見えたのです。

しかし、彼女も厳しい局面をなんとか生きている一人の女性であり、男性社会は彼女らの存在を一顧だにせず、追いつめて行きます。どうか間違いが起きませんようにと祈るような思いで展開を見守る時間帯、私も主人公たちと同じファミリーであるかのような気持ちになっていました。

ジェニファー・ロペス演じるラモーナという人物が途方もなく魅力的に見えるのは、彼女がいつも誰に対しても適切な寄り添い方をするからかもしれません。
彼女が女性と話をする場面で、相手は必ず自信を取り戻しました。かけられた言葉で勇気を持ちはじめ、縮こまっていた身体がほぐれていきます。それは、相手が老人であっても、大卒の記者であっても、あけすけに、ぶっきらぼうに、優しく接し、そして惜しみなく褒めるのです。

以前、勝新太郎のインタビュー映像を見ていて思ったことですが、勝新はいつもインタビュアーに向かって個人的に話すようにして振舞っていました。これは樹木希林もそうしていたと思います。
個人としてそこに存在し、インタビュアーを個人としてその人格を認め、その人に話しかけていたように見えました。質問者に質問もするし感想も尋ねる、お前はどう思うんだということを求め、双方で意思が通うよう努めているように見えました。
それは彼らのサービス精神の顕れでもあったでしょうし、人の魅力は向き合って対話することで発揮されるのだと身をもって教えてくれていたのではないかと思います。

ジェニファー・ロペスのラモーナにも似た匂いがしました。
そこにいる人のことを蔑ろにせず、一対一で向き合って個人的に話をする。その態度が我々を虜にし、また会いたいと思わせるのだろうと思います。(実際、もう1回この映画を見たい、、、)

映画序盤、もう一人の主人公のコンスタンス・ウーと、ジェニファー・ロペスがはじめて会話をするシーンは印象的です。
ウー演じるデスティニーの心情を慮り、ラモーナは自身が着ているふっかふかのコートの中に一緒に入るよう促したのです。デスティニーがコートにくるまれた瞬間から、この映画が終わるまでの間、もしかしたら見終わってからも、私はあのコートの中の温かさが忘れられないでいます。

ちなみに、役名のラモーナの意味をちょっとネットで調べてみましたら、スペイン語で「賢明な保護者」なのだそうで、デスティニーは「運命・宿命」ですから、彼女らの人生を思うとこれだけでグッとくるものがありますね。

本作でジェニファー・ロペスは製作総指揮も務めており、姐御ラモーナの役に自分を当てたということは、自身で自身の魅力を熟知しているんだろうと思います。それがまた嬉しい現実で、そうあって欲しいというこちらの願望にものの見事に応えてくれて、ほんとあざすと脱帽敬礼したい思いです。

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2020年2月14日金曜日

『ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密』-顔、むきだし-

『ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密』(2020)

ライアン・ジョンソン監督の『ナイブズ・アウト』見てまいりました。

ライアン・ジョンソンは、最近ではスターウォーズのエピソード8を撮ってのけた70年代生まれの監督です(思いのほか若め)。
エピソード8・最後のジェダイには様々な賛否、、、やや否が多め、、、といった評判でしたが、私はわりと好きでした。主演の2人が空間を超えて対峙する場面とか、空飛ぶキャリー・フィッシャー(レイア姫)とか。

その巨大な映画シリーズの仕事を終えた監督が次に撮ったのが本作で、今回も脚本を兼ねています。
イギリス的な冷えびえとしたトーンで、お屋敷を舞台に富豪親父の死探偵、疑惑の近親者たちの大集合という定番の設定を、ユーモラスに描いていました。あまりピリピリしません。

今はこうした雰囲気の要は名探偵ポアロっぽいものをやりたかったんだねと、労いの気持ちで見ていましたが、手堅い作りと少しヘンな要素も盛り込みつつの楽しめる一本に仕上がっていました。実際、かなりのヒットを飛ばしたようで早くも続編が企画されているそう。さすが。

ナイブズアウトとはナイフがアウトした状態、こう刃がむき出しになっている状態のことでしょうか。
前半、警察が家族たち一人一人に居間で事情聴取を行う場面で、背景にナイフのオブジェが飾ってありました。
何本ものむき出しの刃が中央に向かって、直径3メートルほどのドーナツ状になり、ギラギラと輝いている様子は印象的です。
ここで、あ、ナイブズがアウトしてる、と思って見るのが正解だろうと思います。

ギラギラしたナイフに上乗せして、この映画では登場人物たちの顔面が強調されます。
個性豊か・・・と言う以前に顔面のパフォーマンスが優れた俳優が多数出演しており、たとえばジェイミー・リー・カーチティスとトニ・コレットの顔が同一画面上にある騒がしさは、それだけで嬉しいものがありました。

登場人物の全員が容疑者なので、皆を並列に描かねばならず、一度見ただけですぐに人物配置を理解できるよう顔パワーが必要だったのかもしれません。

007のダニエル・クレイグが少し間抜けな様子を見せたり、キャプテンアメリカのクリス・エヴァンスがジェームズ・ディーン的な放蕩息子ぶりを見せたり、俳優の持つ従来のイメージを少し動かして、それでいて説得力のあるものにしていました。

そいやダニエル・クレイグってとぼけた感じあるよなとか、クリス・エヴァンスはアウトローな風味があるよなとか、いつの間にかそう見えていました。
ただ、ドン・ジョンソン軽薄な婿を演じてて、そこだけそのまんまでとても良かった。

普段、人は鞘におさめている刃をどんなときにむき出しにするのか、あるいは俳優にとってむき出しの部分が露呈する役柄とはどんなものなのか、そんなことを思いながら鑑賞しました。

探偵ものなので、内容にはまったく触れずに書いて参りましたが、ともかくも、小気味よい語り口で気楽に鑑賞させる映画。こういったものは毎月見たいくらいです。

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2020年2月12日水曜日

『パラサイト 半地下の家族』-においの暴力-

『パラサイト 半地下の家族』(2020年)

ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』見ました。

先月1月に鑑賞していたのですが、このたび、カンヌのパルムドールに続いてアカデミー賞でも作品・監督・脚本等の賞を受賞したとの報を受け、驚くと同時に嬉しい気持ちが爆発し、ともかく何か書こうという気になりました。

まあとにかく、この映画は“おもしろいこと”が最大のポイントだろうと思います。
見た者にただただおもしろいと言わせることのできる映画は、そうあるもんではありません。

しかも、ポン・ジュノ監督にとって、この映画が最終地点とは到底思えないこと、彼の代表作は今後撮られるであろうこと、いずれ超が付く傑作を撮るだろうことが分かっています(笑)。それがまた楽しみで仕方ありません。


さて、この映画は、
映画の特性を活かした暗喩表現に満ちており、それは例えば、金持ちは高台に貧乏人は地下に住むといったものですが、その一つ一つが効果的で見るものを熱中させます。

中でも、貧者の表現の一つとして「におい」を使っていたことに、と胸を突かれた思いがしました。
小学生の頃、休み時間に教室で友人が「あいつはにおうぞ」とこっそり言ったことがありました。指差された方の友人は確かに貧しく、家計を支えるべく彼や兄弟もアルバイトをしている家庭でした。

私は、促されるままに彼に近づき肩の辺りのにおいを嗅いでしまったのです。におったにおったと笑いながら目配せしたことに彼も気付いたようで、なんだろうなと少し怪訝な表情をし、その顔を見て私は良心がひどく痛んだのを覚えています。そのくせその場のノリに流され、からかい半分に楽し気に振舞っていました。

その時のにおいをどう表現したらいいのか分かりませんが、私はふと、自分のにおいは大丈夫だろうかと不安に襲われました。後で一人になってから自分の体臭や服のにおいを確かめて、果たしてにおっているのかどうか、自分では分からないことに恐怖を感じました。

私ににおうよう促した友人も、私も、アルバイトこそしていませんでしたが決して裕福な部類ではなかったため、だからこそあんなことをしてしまったんだろうと今思い返してみると分かります。
誰々の家は独特なにおいがする、なんてことを言い合ったりもしていました。そうした存在を作り上げることで自身の優越感を担保し、安心の材料にしようとしたのです。

『パラサイト』のにおいを巡る一連の展開は、映画のスリルを高める一方で、私にとって大層居心地の悪い記憶を喚起させるものがありました。
においによって理不尽な選別を受けたときに、人は思いのほか尊厳を傷つけられてしまう。もしかするとそれは命にかかわるほど重大な傷となり得る。。

この映画は、私の心の中の狡さを見透かして、鮮やかにそれを突いてきました。映画でそうした体験をさせられるのは、私にとって映画冥利につきます。改めて反省をしました。あの頃のことを思うと慚愧に堪えません。。


あともう一点、触れておきたいのが主演のソン・ガンホの演技についてです。
この映画のとある場面で父親役のガンホが、とある騒動から離れて行く様子が描かれます。
自失しフラフラとした足取りで髪を振り乱しながら歩く様を、やや俯瞰からとらえたスローモーションのショット。こういった場面でのソン・ガンホは、なぜこうも良いのか。
ソン・ガンホにぜひともやって欲しいあの動き、そしてできればスローモーションで見たいという欲求に完璧に応えてくれた瞬間でした。客席から「でたー!」と手をたたきながら叫びたくなるほどでした。

これを書きながら様々な場面を思い出し、改めてもういっぺん見たいなと、、、そんな心地になっています。


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