2020年3月9日月曜日

『1917 命をかけた伝令』-夢と現を行き来して-

『1917 命をかけた伝令』(2020年)

サム・メンデス監督の『1917 命をかけた伝令』見てまいりました。

といっても、鑑賞したのは2月の中頃で、コロナによる様々な自粛がはじまる前のことでした。
警戒感が高まりつつある中、その日は2本をはしごしました。

劇場公開される映画は、油断しているとすぐに公開規模や上映回数が少なくなりますし、12年の震災のときのイーストウッド『ヒア アフター』がそうだったように、事情により上映が打ち切りになることもあります。延期となるケースも多々あります。

レンタル、配信で見ることにするか、、、と思ったきり二度と見ることのない映画というのは少なくありませんから、そう考えると公開時にその映画と向き合える瞬間というのは貴重なもののように思えてきます。

生稲(イクイナ)晃子が感想コメントを公式サイトに寄せていたのでタイトルは忘れません、この『1917』は、全編がワンカットで描かれる戦争映画です。

とある兵士のとある半日を、ほぼワンカットで途切れることなく追い続けています。
私が劇場の椅子に腰かけ、スクリーンを見上げ、出会ったその映画と対峙している瞬間の貴重な時間経過と同様にして、この映画もリアルタイムで登場人物の人生の瞬間を映し出していました。

先に一点、お詫びをしておかなければなりません。
ワンカット映画を見るときの心構えとして持っておきたいのは、一瞬たりとも見逃さない姿勢だと思うのですが、途中、不覚にも少しうとうとしてしまいまして、個人的には寝落ちのインターバルを挟んだ2カットになってしまいました。この映画では絶対にあってはならないことと深く反省しています。出演者・スタッフの皆様には本当に申し訳ない思いで一杯です。。(単に寝不足がたたったもので、作品が退屈だったケースではありません)

目が覚めて、あ!しまった!と思うと、ほどなく高いところから主人公がドーンと飛び降りて、何がなんだか分からないままもみくちゃになる彼と同期して、そのシーンは大変怖かったです。

命令を受けた若い兵士が敵陣を突破し、最前線に作戦変更を伝令するというシンプルな構成がまず良いですし、あらゆる場面をつながりの違和感なく一気に見せるカメラワークは、撮影の技術博覧会として相当に見ごたえのあるものでした。

ひとつのカットが長ければ長いほど、観客はカメラを意識することになりますので、カメラマンや機材の存在、撮影現場の様子を思い描きながら楽しむのがまず一つ
信じられないような展開に目を奪われ、いつの間にかカメラワークのことを忘れて楽しむのがもう一つ。
ワンカット映画の醍醐味とは、物語の味わいに撮影行為そのものが表現として組み込まれていて、双方を行きつ戻りつできるところにあるのだろうと思います。この映画は、やややり過ぎなほどに(笑)そのことに成功していました。

そのため、ちょっとコンセプトが先走りする印象もなくはありませんでした。うまいことやるなあサム・メンデス!と感じる回数が多くなってしまうといいますか。音楽を少し大仰に張り巡らしたのは、あまりにも計画的な企画・撮影行為の存在を薄めるためだったのではないかとも思いました。

とはいえ、ワンカット映画の歴史の中で、また一つ重要な一本が生まれた感触がありました。
ヒッチコックの『ロープ』、アレクサンドル・ソクーロフの『エルミタージュ幻想』アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの『バードマン』といった作品と同様、チャレンジングな映像表現自体に意義があるように思います。

ほかにも、本当に深夜から翌朝までワンカットで撮りあげたドイツの犯罪映画『ヴィクトリア』や、白石晃士監督の主観ショット・モキュメンタリー・スリラー『ある優しき殺人者の記録』など作り手の熱意を意気に感じる佳作もありましたし、映画ではありませんが三谷幸喜の『short cut』『大空港2013』のwowowでの2作は、演劇的な装いをワンカット映像に落とし込んでいて、それを活かした笑いも見られました。

さて、『1917 命をかけた伝令』ですが、本作を鑑賞する際にぜひともお薦めしたいのは、ピーター・ジャクソン監督のドキュメンタリー『彼らは生きていた』とセットで観ることです。

1917』はワンカット映画ではありますが、様々な仕掛けを用意した娯楽アクションでもあります。ドキュメンタリータッチで兵士の息遣いひとつにも肉薄するといったような趣ではありません。
一方『彼らは生きていた』は、実際の第一次世界大戦を撮影したフィルムに色と音をつけて蘇らせた作品ですので、これが脳内で混ざりあって奇妙な映画体験が完成します。
もはや前線のイギリス軍のことが自分の記憶として焼きついてしまったような感覚。ぜひ。

(こちらの記事も書いていますのでぜひどうぞ)→『彼らは生きていた』-戦場のコント-


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2020年2月25日火曜日

『彼らは生きていた』-戦場のコント-

『彼らは生きていた』(2020年)

ピーター・ジャクソン監督の『彼らは生きていた』見てまいりました。

まず、このドキュメンタリー映画がどういったものなのか公式サイト等から引用し箇条書きにしてみたいと思います。

・イギリスの帝国戦争博物館に保管されていた第一次世界大戦の記録映像を再構築
・2200時間にも及ぶモノクロの映像を修復・着色
・無音の映像に足音や爆撃音など効果音を加え、一部の兵士の声は、読唇術を用いて当時のなまりのある話し方まで俳優が再現
・異なるスピードの映像を1秒24フレームに統一
・イギリスBBC保存の600時間の退役軍人のインタビュー音源をナレーションの形で構成
・兵士の戦闘だけでなく、休憩時や食事の風景など日常の様子も盛り込んだ

という常軌を逸した一品です。

2200時間の映像を、チェックするだけで2200時間かかるという計算になります。
600時間の録音を聞くだけで600時間が必要です。

足した2800時間を24時間で割るようなことは、あえてここではしませんが、1日8時間労働だとして、、とかいった野暮なことはしませんが、ともかくこの膨大な素材から必要部分を抜粋し構成し、さらには修復しという作業を思うと気が遠くなりそうです。

それを監督したのがピーター・ジャクソン。あの『ロード・オブ・ザ・リング』(01年)の、あの『ブレインデッド』(92年)の監督です。相変わらずおそろしいまでのバイタリティで、人々をあっと言わせる作品に挑戦しています。

私が子供の頃、80年代には世の中は既にカラーテレビが主流で、映画もカラーが当たり前でした。
小3のときに同級生の女の子が「うちまだ白黒テレビ」と発言しクラスメイトを驚かせ、私も度肝を抜かれたのですが、80年代中頃の地方ではギリギリ白黒の文化が残っていたものの、それは化石のような扱いだったという状態でしょうか。

当時私が見た白黒の映像と言えば、例えば「テレビ探偵団」(86年~92年)や、懐メロ、昭和の事件特集など、まだ白黒放送だった時分を回顧するテレビ番組で触れる程度でした。
色がないことは殊更に印象的で、随分と過去の出来事のように見えたものです。知らない時代の遠いお話。もしかして実社会が白黒だったのではと勘違いしそうになるほどに隔絶を感じていました。

特に世界大戦においては、残存する当時の映像や写真をもってしても、事後に生まれた者たちにとっては現実味が薄く、不当に過去のものとされてきたところがあったのではないかと思います。

本作は、白黒が持つ過去性といいますか、その虚構性を真っ向から破壊しにかかります。我々となんら変わりのない人々が本当に戦場にいて、戦い、命を落としたのだと、それを実感するために可能な限りの技術を駆使して、生々しく蘇らせたのです。

第一次世界大戦(1914年~1918年)は、近代戦争としてとんでもなく多数の死者を出しました。
その記録映画ならば、おそらくは凄惨な映像が大半なのだろうと覚悟して臨みましたが、必ずしも露悪的な残虐さの押し売りはしておらず、無論そういった箇所もありましたが、印象に残るのはそこにいた兵士たちの表情、それも笑顔でした。

画面の左から右へ、二人の兵士が横切るワンカットがありました。
前を行く兵士の頭を、後ろの兵士が長い棒でコツンコツンと叩きながら歩き去るほんの小さな一幕。これが目に焼き付いています。
後ろの者はカメラの方を見ており、これがわざわざ撮影者に向けられた冗談だった可能性を感じさせました。あるいは撮影者も一緒になって演出した“おもしろ映像”だったかもしれません。

激しい戦場の前線、敵のドイツと向き合い塹壕でうずくまって戦ったイギリス兵たちは、後方での束の間の休み時間にこうしたことをやっていたのだと、目の前で生き生きとしたその様子を見せられ感動さえ覚えました。と同時に、この日常的な様子が翻って戦争の恐ろしさを浮き彫りにもしていたと思います。無茶苦茶良い場面でした。

戦争の記録としても、映像革新としても、大変意義のある作品だったと思います。よくぞやってくれたと、心から拍手を送りたい気持ちです。

そしてふと、この技術を使えば、かつての白黒映画もカラー作品化できるという理屈になるわけで、『七人の侍』(54年)とか『雨月物語』(53年)とか、『ゴジラ』(54年)でもなんでもいいのですが、一体どんなことになるんだろうと思いました。。

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2020年2月22日土曜日

『ミッドサマー』-儀式には口を出せない-

『ミッドサマー』(2020年)

アリ・アスター監督の『ミッドサマー』見てまいりました。

理不尽なルールに巻き込まれた主人公たちが、果たしてそこから抜け出すことができるのだろうかという物語。監督前作の『ヘレディタリー/継承』とも通じるところがありますね。ほんと嫌な話を作る名人(笑)。

悪夢をずっと見せられているような心地で、館内も暑かったのか妙な汗を全身にかいてしまって、個人的には4DX並みの体感でした。

緑に囲まれたとある山村。山奥の広々とひらけた土地にあるこの村は、白夜により夜を知りません。延々と、煌々と照りつける日差しのもと、白い衣装に身を包んだ村人たちが笑顔で暮らしています。
この異境に、若い男女が訪れてどえらい目に遭うわけです。 
 
ほぼ全編が儀式でした
この集落では宗教と風習により、徹底した儀式が構築されており、なんびともこれを侵すことはできません何から何まで儀式で成り立っており、食事をとるにも花を摘むのにも全てルールの中で行っているのです。
友人の案内でこの地に足を踏み入れた男女たちは、驚きつつ、困惑しつつ、その特有のルールに興味を持つものも出始めます。

葬式で笑ってはいけないのと同じで、そこに入ればルールに従わなくてはなりません。

子供の頃、たまに友人宅へお泊りすることがありました。
そのとき泊まった友人宅ではお風呂のお湯がぬるいルールがあり、おそらく子供たち用にぬるめの設定をしていたんだろうと思いますが、私の家は熱々の湯船に「あー!」と叫びながら肩まで浸かるようなルールでしたので、そのギャップに驚いたのを覚えています。

ぬるいからといって、私は追い炊きを求めることはできませんでした。友人と友人の弟と三人で大はしゃぎで風呂を終え、その後布団に入ってから熱を出すことになるのです。身体が冷えて風邪をひいてしまったのでしょう。

翌朝の朝食は肉まんだと聞かされていましたが、晩のうちに帰宅することになり、肉まんにありつくことはできませんでした。私の家では肉まんはおやつであり食事に食べたことがなかったので、なんて素晴らしいルールなんだと大喜びしていたのですが。。

「あ、こちらでは、そのようになさるんですね、、、」という思いは誰しも感じたことがあるはずで、地域や職場や学校やお店などなどあらゆるコミュニティにおいて、積み上げられてきたルールに他者が初めて触れたとき、何かしらのショックが起きるものでしょう。

小さな小さなコミュニティである家庭単位でも風呂ルールが変わるのに、国や人種、宗教、歴史が違えば、ますますその違いは大きくなるでしょう。だからこそ昨今は“多様性”への関心が高まり、相互理解と偏見からの脱却が求められているわけですが、それをこのアリ・アスター監督は悪用(笑)しまして、およそ思いつく限りのおぞましい“特有の”ルールを主人公たちにふっかけてきます。「あ、こちらでは、そのようになさるんですね、、、」の連続。ここでは当たり前のことなんだからと許すと、とんでもないことが起きてしまいます。
まぁホラー映画ですね、これは。

こわい映画らしく、この映画にはこわい老人が多数登場します。
最近だと、M・ナイト・シャマラン監督の『ヴィジット』(15年)で姉弟が宿泊する先の祖父母、それからアンディ・ムスキエティ監督の『IT イット THE END 』(19年/続編の方)でジェシカ・チャステインが訪ねた家の老婆、あの風味の老人群がそうです。こわい老人。

ボケてるのか何なのか、話が通じなさそうな老人の怖さを描くのが近頃少し流行しているのかもしれませんが、本作にも沢山出てまいります。私はこわい老人ファンですので存分に楽しむことができました。怖かったです。

夢を見ているような、酩酊しているような、ドラッグでトリップしているような、地に足のつかないような、感覚が麻痺したような、そうした状況の中に信じがたい現実がぽんぽんと放り込まれる超現実儀式映画。音もまた凝った作りをしており、見ていて汗ばんだのは音の効果にやられてしまったからかもしれないと、後になって思いました。

早く帰って今日は早寝しよう、布団でゆっくり眠ろうと、帰宅の電車でそう思っていました。アリ・アスターめ、ありがとう。
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